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大阪家庭裁判所 昭和39年(家)2605号 審判 1965年3月20日

申立人 野村一男(仮名)

相手方 本田ひさ(仮名) 外六名

参加人 野村シノ(仮名)

主文

下記の者は参加人に対し昭和三九年七月以降同人の存命中下記内容の扶養義務を負担すること。

(一)  相手方野村治男は参加人を同居させて引取ること。

(二)  申立人及び下記相手方等は次のとおり扶養費を分担し、すでに期限のきている分(昭和三九年七月以降同四〇年二月まで)は直ちに、昭和四〇年三月以降は毎月末日限り、参加人宛に送金または持参して支払うこと。

(イ)  申立人野村一男は毎月金一、七五〇円(ただし即時支払分のうちからすでに支払ずみの金六、〇〇〇円を控除する)。

(ロ)  相手方本田ひさは毎月金八〇〇円

(ハ)  相手方野村俊男は毎月金一、〇〇〇円

(ニ)  相手方吉田松子は毎月金八〇〇円

(ホ)  相手方田中咲子は毎月金一、〇〇〇円(ただし即時支払分のうちからすでに支払ずみの金二、四〇〇円を控除する)。

理由

調査の結果によると、次の事情が認められる。

(一)  参加人野村シノ(明治一九年一一月一二日生)は夫松吉との間に、相手方ひさ、申立人一男、相手方幸男、同俊男、同松子、同咲子、同治男の順に子をもうけ、松吉の営業する木版手摺の家内工業を手伝い乍ら子女の養育につとめてきたが、戦災で家を焼かれてからは夫と別居し、申立人及び当時出征して不在だつた相手方治男以外の子女を伴つて京都市○町に居住する実妹方に移住した。夫松吉は参加人と別居後申立人と共に申立人肩書住居を借り受け同所において戦前営んでいた木版手摺業を再開したが、昭和二四年五月一〇日○町に赴いた際、相手方松子の紛糾した結婚問題にショックを受けて死亡した。その際の葬儀は相手方俊男の負担において執行された。参加人は夫死亡後昭和三七年一月一八日まで上記俊男に引取られ扶養されたが、従来から仲たがいをしていた申立人と俊男とが弟治男の縁談に関し意見が対立して完全に決裂した状態に陥つたため、参加人もその余波をうけて一時相手方松子に引取られたが、松子の家庭事情から長居するわけにもゆかず昭和三七年一〇月頃申立人宅に引取られた。ところが参加人は申立人宅でも同居を好まれなかつたため翌三八年七月から相手方治男のアパートに寄寓したが、同人もこれを心よく思わないため、申立人から本件申立がなされたものである。

参加人はこれからの生活を養老院で送ることを極度に嫌つており、現在は治男のアパー卜に身を寄せて国民年金年額金一万〇、二〇〇円の支給を受ける他自己の持金四万円で何とかやりくりしている状況にあり、相手方治男が提出した参加人の生活費は一ヵ月約金六、二〇五円を必要としている。

(二)  申立人(五五才)は、参加人の扶養を相手方俊男から一方的に押付けられたと解している。すなわち、俊男は父松吉葬儀の際一切自分がすると豪語した関係上、その費用一切を負担したが、これに少くとも金二〇万円を要したのに懲りて、参加人の葬儀費用の負担を免れたい一念で弟治男に嫁をとり参加人の世話を押付けようと企らんだが、申立人としては治男の行状からして嫁が居つかないだろうと予想し結婚には反対をしてきたところ、果せるかな治男の縁談は破談に終つた。すると俊男はこれを機縁に言いがかりをつけその責任を申立人に負わせ、かつ参加人の扶養をも押しつけてきたのである。しかしながら申立人は妻との間に長女(二二歳家事手伝)、次女(一七歳高校在学中)及び長男(一五歳中学在学中、唖者)を有し、狭い家で木版手摺の家内工業を営んでおり、そこえ耳の遠い参加人が同居するとなると家族の者との折合も悪く、殊に長男正男は祖母である参加人を嫌い或時は両者つかみ合いの喧嘩をしたこともある程で到底参加人の引取はできない。申立人は他の弟妹との平等の割合による金銭負担なら応じてもよいと考えその提案をしたところ、一人として参加人の扶養に応じようとしない。これは他の弟妹等が挙つて申立人を苦しめようと意図しての態度に他ならないと考えている。

申立人は、区役所における調査によれば上記営業による昭和三八年度年間総所得が金三二万四、〇〇〇円であつて固定資産なく借家住い(賃料月額金一、〇〇〇円)であるが、電話を所有し次女を高校に進学させている等の事情から推測すると、実収入は上記金額を上廻るものと認められる。

(三)  相手方本田ひさ(五五歳)は、本件は治男の縁談が破れた際、申立人が俊男に対し参加人を引取るとか、引取つた後は家を建増して住わせるとか言つたりしたことが発端となり、前々からよくなかつた申立人と俊男との間がますます険悪な関係に陥つたことに端を発したものである。そもそも申立人の子正男と参加人との仲が悪いというが、申立人夫婦の親に対する態度がよくないから正男にもそれが反映して祖母を軽蔑するのではあるまいかという見方をしており、参加人の扶養については月額金五〇〇円位なら負担してもよいと述べている。

相手方ひさは夫本田忠男との間に長男(二二歳)及び長女(一七歳)をもうけ、子等は何れも学業を終え、長男は就職している。夫忠男は雑貨店の店員として給与収入年額金三二万六、七〇〇円となつているが、仕事は子供用リボンを家庭内で製造しており、実収入は不明であつて住居は借家である。ひさは無職である。

(四)  相手方幸男(五三歳)は妻との間に二女(一一歳、八歳)を有するところ、肺結核にかかつて京都病院に入院したこともあつて現在無収入であり、妻がミシンの内職をする他公的扶助月額金一万五、〇七円及び衣料の現物支給を受けて生活している。

(五)  相手方俊男(四九歳)は、父松吉死亡に伴う遺産相続を兄の申立人が一人占めしたにもかかわらず、父死亡後から昭和三七年一月一八日までの間自分一人で参加人を引取扶養してきた。ところが、たまたま申立人が治男の縁談を傍観したうえ参加人の扶養まで自分に押しつけようとしたことに端を発し、口論となり、自分は幸男、松子も同席する場で申立人に手をついて参加人の扶養を頼まなければならないような事態に追い込まれ、以来申立人とは絶縁状態に入つた。その際参加人自身も「もうお前の世話にはならない」と捨ぜりふを残して立去るという一幕もあつた。これらの経緯からしても参加人の扶養は申立人がなすべきであつて自分にはその責任はない。自分はこの争以来高血圧症と自律神経失調症により体の調子が思わしくなかつたところ、一昨年交通事故に遭い右脚・肋骨・鎖骨骨折・頭部強打・顔面裂傷の傷害を受け、現在も視神経萎縮のため未だに通院治療している状態で恢復の見込も立たず、視力が弱くて木版手摺の仕事もできなくなり、遂に昭和三八年五月二五日付で所轄税務署に廃業届を提出済である。強いて参加人を扶養せよというなら月額金一〇〇円位なら負担してもよいとの意向を洩らしている。

相手方俊男は上地三五・四八坪及びその地上家屋九・三八坪(固定資産評価額金二四万〇、六〇〇円)の市営住宅を昭和三七年二月買取つて所有しており、申立人の話によると更に株式を多数所持しているとのことであるがその調査は不能である。俊男の昭和三八年度上記営業による総所得は区役所の調査では年額金三三万円であるが、妻との間に出生した子三人(中学二年・小学六年・同一年)がそれ相当の生活をしていたところから考えると、上記総所得額は実収入と一致せず、実際には月額金三万乃至四万円以上の実収があつたものと認められる。ところで、俊男は上記疾病のため現在無収入であるというが、当庁調査官が訪問の際駐車中の軽四輪自動車に印刷用紙を積載している場面を目撃しており、営業は継続されているものと目されるが、これによる収益は詳らかではない。廃業届出前と現在とではそれほど受註量に大きな減少があるものとも認められないし、兎も角家族五人が借金もなく生活していること等から推測すると少くとも一家の収入は月額金三万円以上あるものと認められる。ただ、俊男は上記の如く医者通いをし国民健康保険加入者として医療費の割か自己負担(大した額にならない模様)となるうえ、仕事上相当の制限をうけるので従来の俊男の役割は相当部分妻清子がこれに代つて行つていると考えられ、俊男自身の資力収入にはこれ等の点を配慮する必要が存する。

(六)  相手方松子(四八歳)は、昭和三八年七月二五日頃、参加人が申立人の子正男と喧嘩して来訪し二〇日間位滞在したことがあるが、自分としては夫が脳軟化症を患つていたため長居をことわり出て行つてもらつたことがある。参加人は申立人が引取つて扶養すべきであると考えている。

松子は、夫吉田貞男との間に一女(一二歳)を有し、夫は農業(植木職)を営み年間金一八万九、〇二〇円の所得のため課税されていないが、田及び宅地合計七筆(固定資産評価額金二三万四、〇〇〇円)及び電話一台を所有しており、申立人の言うところによると、植木職として相当裕福に暮しているとのことである。

(七)  相手方咲子(四六歳)は、参加人の扶養問題に関しては、申立人、相手方俊男何れもの親に対する考えがなつていない。申立人が参加人を引取るという手紙を見たこともあるし、申立人は、唖の子に心を奪われて親を忘れているのではないか、また俊男も参加人に孫の守をして貰つたのだから本来なら同人が参加人を引取るのが順序と考えるが問題がこのようにこじれてはそれもむずかしかろうという意見を持つており、月額金五〇〇円位なら負担してもよい意向である。咲子は夫田中邦男との間に長女(就職)及び長男(中学生)を有し、夫はプロパン会社の雑役夫として日給八五〇円を、咲子は毛織会社に勤務して年間金二三万五、五〇三円を得ている。固定資産はなく借家住いである。

(八)  相手方治男(四二歳)は、独身でアパート一間(四畳半)で生活しているので、そこに毎夜イビキとうなり声を発し、かつ頻繁に便所へ行く度毎に大きな音をたてる参加人を同居させることは困難である。自分は神経質であるから参加人のため睡眠不足になり気が変になることもあつて参加人の世話は到底できないが、強いてというなら月約六、二〇〇円を確保してくれるなら同人を同居させてもよいとの意向である。

治男の収入は○○工具株式会社に非常勤として勤務し月給金二万円を得ている。

(九)  相手方良子は戸籍上は参加人の五女として登載されているが、、真実は同人と親子関係はなく、相手方松子の非嫡出子である。

(10) 当裁判所は昭和三九年七月二九日審判前の仮処分命令を発し、同月以降、治男に引取扶養を、申立人及び俊男には毎月金二、〇〇〇円づつ、ひさ、松子、咲子には毎月金八〇〇円づつを毎月末日限り寄託払せよとの金銭扶養をそれぞれ命じたところ、これに基き申立人が三ヵ月分金六、〇〇〇円を寄託して、また、咲子が三ヵ月分金二、四〇〇円を直接交付して支払を了した。

以上認定した事情によれば、参加人は自己の持金を費消したと推測される昭和三九年七月以降扶養を要する状態にあること、同人の生活費として治男の提案する額一ヵ月金六、二〇〇円は最少限度必要と認められるが、参加人には月額金八五〇円の割合による国民年金の所得があるのでこれを上記生活費から控除した金五、三五〇円が一ヵ月の必要費となることが認められる。そこで、扶養義務者の点については、本件当事者のうち、生活保護を受けている相手方幸男及び参加人と真実の親子関係がない相手方良子を除いたすべての相手方等と申立人に参加人の扶養義務を負わせるのが相当と思料する。よつて進んで、上記扶養義務者につき義務の程度方法をどのようにすべきかを考察する。

参加人の引取扶養は義務者全員が挙つて好まないところであるから、参加人を養老院に入院させ、その費用の負担を義務者に負わせるのも一策であるが、参加人自身これを極度に嫌い、仮りに入院を希望したとしても参加人が他の老人と協調し得るかどうか懸念もされるので義務者のうち誰かに引取をして貰わなければならないところ、相手方治男が辛じて上記条件附で引取を承諾しているので同人には参加人の引取を命じ、他の義務者等には、申立人が父の遺産を単独取得したこと、相手方俊男が過去一〇余年間参加人を引取扶養したこと、相手方ひさ及び松子は無職であるが内助の働きにより夫の収入の一部を妻の収入とみるべきものであること、その他義務者の資力、収入、家族の状況等本件手続上知りえた諸般の事情を勘案したうえ、昭和三九年七月以降参加人存命中、申立人には金一、七五〇円、相手方ひさには金八〇〇円、相手方俊男には金一、〇〇〇円、相手方松子には金八〇〇円、相手方咲子には金一、〇〇〇円をそれぞれ負担させるのを相当と認める。ただ申立人及び相手方咲子には上述のごとく既に支払ずみの分があるからその金額は上記負担額から控除すべきものである。よつて主文のとおり審判する。

(家事審判官 寺沢光子)

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